全国の哲学者よ、奴隷様に感謝せよ!背後世界の歴史(以下はいれき)1 ~最初の哲学者。ミレトス学派~

2012-05-17
 生きている理由が欲しい
 説明が欲しい
 死んでいる理由が欲しい
 説明が欲しい

 だから創った
 現実を雛型に

 創ったのは
理由というより
説明というより

 前提
 即ち――
 
 神話




世界を説明する役割を「神話」が担っていた時代は実に長い間続く。
疑うという発想すら出てこない。
疑うことは足場を崩すことに等しいこと。
民族の歴史、文化、先祖を否定する冒涜。
間違っているはずがない。
誤っているはずがない。

だが長い時が経つにつれ、他の民族と出逢う。
その人達も神話を持っている。
我々と全く違う。
他という名の第三者との邂逅。
相対化により絶対視がゆらぐ。



B.C.600年頃――

古代ギリシャには商業都市ミトレスがあった。
商業都市では各地からものが集まり交換されるのだから、色々な民族が交流する。
文化の相対化。
異種の神話との交流。
我々の神話は本当に正しいのか?
彼らの神話が本当は正しいのか?

 後に、最初の哲学者と呼ばれるタレスが、「もと」について考える土壌は、異種なる他者との交流のおかげだった。



 神話(宗教)から哲学(科学)へ。
宗教の本質の一つは、疑わないこと。
哲学の本質の一つは、疑うこと。
前提・当然・あたりまえ、を疑うことが哲学の本質。

 タレスは万物のアルケー(元のもの)を水だとした。
 

 ※アルケー
…ラテン語訳でprincipium。複数形principia。このラテン語には原語の「もと」「始まり」「支配」が含まれている。が、英訳principle、独訳Prinzip、日本語訳「原理」では足りない。
 一番近いのは、「もと」(本、元、素、原)、根源。原理。アルケー自体は変化しない。その後に生まれるものの原因であるという意味で初めに在るもの。



タレス(ターレス、タレース。古希: Θαλής、希: Thalēs、紀元前624年 - 紀元前546年頃)
 の功績の一部。
1、三角形の内角の和は180度
2、二等辺三角形の2つの底角の大きさは等しい
3、平行線はどこまでも交わらない
4、合同を証明
5、比例を証明
6、棒1本でピラミッドの高さを測った
7、日食を予言
8、半円の弧に対する円周角は直角である
などなど。

 だである調→ですます調


タレスの万物は水という思想は、
哲学と神話がまだ混ざっています。世界が水から(自ら?)できているイメージは、当時の古代オリエント神話にありふれていました。


古代バビロニア神話に登場する、神や万物を産んだ母なる神ティアマート。その名は「苦い水(塩水)」を意味し、伴侶である神アプスーは「甘い水(淡水)」の意味です。

また、
エジプト神話では、この世界の原初の海で原始の神であるヌン(Nun)=原初の大洋ないし混沌(カオス)が擬人化された神格、のうえに浮かんでいるとイメージされました。万物は水より生じるとした考えは、いわば当時の普通の考えとも言えます。

ヌンは、の原始の神で、あらゆる存在の起源たるで、一説にオシリスとセトの兄弟とも言われている。
※原初の水ヌンは、あらゆる神々の最初の神として神格化されたましたが、図的表現は稀にしかありません。もしかしたら偶像崇拝の禁止のはしりかもしれませんし、水はかたちなきものなので、像にしたり絵画にすることは固定してしまうので不適切とされたのかもしれません。





『初期ギリシア哲学者断片集』内収録
後に詳述するピタゴラス学派に多大な影響を与えた、オルフェウス教の神統譜(神々の系譜・歴史)

“はじめに水と泥があった[中略]この二つについで第三のアルケーが、この二つのもの、すなわち、水と土から生まれたが、これは竜で、両側にはえでた雄牛と獅子の頭を、そのまんなかに神の顔をもち、また肩には翼をもっていた。この竜はまた不老のクロノスとも、ヘラクレスともよばれた。”



 ※ギリシア神話は、カオス(渾沌)が先ずあり、カオスから天地が生まれました(渾沌=かたちがないなにか、からかたちあるものが生じてくるモチーフは記紀神話など各地で共通)。天と地の子がタイタン(巨人族)であり、クロノス(時の神)もその一柱でゼウスの父。クロノスはゼウスが天の神々の座につくまでオリンポスを支配していたのです。時の神クロノスはすべての始まりあるものに終わりをもたらすために自分の子供を食うとされます。クロノスに三つの頭があるのはケルベロスと関係あるのでしょうか。
 神話でたいがい出てくる要素
=固定されていないもの(水や泥など)から固定されたものが生じる。
 に見事に当て嵌まっている記述です。





ミレトス学派(タレスが祖)

タレスの弟子であるアナクシマンドロス(Anaximandros, B.C.610-546頃)
アルケーは
「無制約なもの(ト・アペイロン。無限なもの)
=まだ何ものでもない或る「原質(ヒュシス、ピュシス)」(※)。どんな限定もうけておらず、どんな制約もない、生まれることも滅ぶこともない。
永遠で不滅だ(真正断片2と3)

その弟子アナクシメネス(Anaximenês, B.C.585-528頃)は「空気(アエール。アエル;aêr)空気が濃厚になれば「水」、やがては「土」になる。どんどんと薄くなれば、「火」ができると考えたんです。空気は、人間の魂のもとにもなると考えたようなのです。

そして、「空気自身は、宇宙全体を包み込んでいる(真正断片2)」

※近代の自然に対する見方と、古代ギリシャ哲学者たちの自然(ヒュシス、ピュシス)に対する見方は異なります。先のアナクシマンドロスにて「原質」もピュシスであり、自然であり、生(な)ることであり、また本性(性質)でもあります。特に前ソクラテス期の哲学者が対象とした自然とは、これら全てを含んだピュシスです。
 アナクシメネスは、人間とコスモス(宇宙=世界)を一つの原理で考えました。魂は気息(プネウマ)であり、呼吸によって体内に入るとしました。人間をミクロコスモス(小宇宙)として捉え、宇宙の原理=人間の原理という等号において、古代の宇宙論(コスモロジー)は成立してました。人間を小宇宙ミクロコスモスとした捉える考えはギリシャ哲学で根強かったのです。


※気息(プネウマ)
昔から、息は何か特別なもの、生命のリズムを象徴するものと考えられてきました。霊魂をそのなかに含むようにしてイメージされた息のことをプネウマといいます。人間とこの世界は同じ原理、息(プネウマ)=空気、によって成立。空気は薄くなったり濃くなったりして森羅万象を産み出すとしました。

 
 以上三人の哲学者――最初の哲学者とされるタレスを含む――から始まる思想の流れを、イオニア自然学とも云います。ピュシス(自然)について思索し、

 「魂や生命を包み込んだピュシス」の世界のアルケーを求めました。彼らが考えたアルケーは単なる物質(当時そんな言葉は有りませんが)ではなくて、生命の原理としての「生きた物質」でした。この考えを、物活論と言います。人間とピュシスと宇宙が一体となった世界像であり、ピュシス(自然)が含んでいた「生成する、成る、生る」の意味が正にそれを示しています。

⇔物質(自然)を受動的な死んだもののようにみなす考えは近代以降のもので、近代に至って初めて物質は法則に支配される死んだものとなります。近代哲学は精神として捉えられた「人間と自然(もはやピュシスではない)を厳密に区別」することから出発しています。自然は機械であり、無機的で、死せる物質に過ぎない、としました。

 
 一体となっていた世界に「区別」を持ちこんだのは、彼らはピュシスを探究した人々だと「区別」し「分類」した古代哲学の完成者のアリストテレスです。この
「厳密に分ける」こと、
「絶対に他なるものとして区別」することは、今でも欧米思想に根付いています。


おーわりっ。
オワリーです。













こんなので終わると、

思っていたのか?(ブロリー風)



ミレトスはギシリア本土からの移民都市。
よって本土の伝統の影響が薄い。

スコレー(ひま)がないと思想は育たない。

ミレトスは海沿いにある。
海沿い。貿易。船。海賊。奴隷貿易。

都市の住民の多くは奴隷を所有。

奴隷の犠牲の上に、哲学は生まれた。


めでたくなし。
めでたくなし。

全国の哲学者よ、奴隷様に感謝せよ!

森博嗣『笑わない数学者MATHEMATICAL GOODBYE』文庫版

2012-05-16
人間は自分の生き様を見せること以外に、他人に教えることなど、何もないのだ。一般に使われている教育という言葉は、ありもしない幻想でしかない。”p.193‐194

まずい料理を食べることが愛情かな?どんなに出来が悪くても優をくれる先生が尊敬できる先生かな?もし知らない人が作った料理なら、少しくらいまずくたって我慢するかもしれないね。でも、西之園君が、もしもだよ……、まずい料理を作ったら、我慢ができないね、僕は。それが、人を尊敬するってことだ”p.375


“「数学が何の役に立つんです?」
(…)
「鶯の美しい声に、何の意味があろう?森へ行ってきいてみるがよい。何のためにお前たちは鳴くのかと。何の役に立つのか、とな。すべての美は、それを尋ねる者には、役に立たぬものだ。では、哲学者は何の役に立った?存在の複雑さをベクトルのようなものに置き換えて何になる?心理学者は何の役に立ったかな?解放と処方を入れ替えて、絶叫と抑制の多角形の頂点を一つ移動したに過ぎないではないか。物理学者は、世界中の金を集め、統合というただ一つのマジックさえまだ完成させていない。宗教家、それに政治家はどうだ?戦争が終わらないように敗者を援助する、いやそう言って握手だけの約束をする。誰が何の役に立った?一人でもよい、役に立った者を思い浮かべてみたまえ。よいか……、少なくとも数学者だけは、
自分たちが役に立つなどとは決して言わなかった。何故なら、それが我々の唯一の真理であり、名誉なのだ」“p.77


ものを観察している間は、人は考えないものだよ”p.432


“「人類の文明は僅かに数千年だ。史上最大のトリックとは何かな?」
(…)
人類史上最大のトリック……?
(それは、人々に神がいると信じさせたことだ
)“p.86




”「よいか……、太陽からの光、つまり電磁波のおかげで我々はものを見ることができる。しかし、太陽のような日常の常識が、あるときは思考の邪魔になるのだ。常識のために見えないものがある。3を7で割ることは日常にはない。それが、この問題に皆が悩まされた理由だ。自由な思考をすることが最も大切なことだ。それが綺麗にものを見るということなのだ。そして、自由な思考のためには、日常を滅却することが必要だ。それが重要なことだ。いつも、それを思い出しなさい。よいか……、既にある定義に迷わされてはならない。定義は、自らして意味のあるものとなるのだ。内も外も、上も下も、すべてを、自ら定義することだ。定義できるものが、すなわち存在するものである」”p.76




(目次より抜粋)

(はたして、これらは妥当な観察点からのもので、しかも連続した存在なのでしょうか?)


(起源は忘却され伝統の手法だけが取り残される。たとえ、神のトリックであっても)


(残念ながら、観察者と独立に存在するものは、定義できないゆえに、存在しない)


ならば問う。非厳密あるいは矛盾が常に何らの働きもしなかった歴史がありえたか)

(微分方程式という融通の利く語彙は、一度に一所しか見えない人間の目が産んだものだ)

(現実がいつもシンデレラの醜い姉のようであれば、公理の靴はいかにも窮屈となろう)

(十万桁まで計算されたパイに人間性がないというのですか?人間以外に誰がします?)



お前たちを悩ませているものの正体は何だ?そう、それを自問しなさい”p.85

“「よいか、あらゆる課題は、現実と理想、あるいは事実と理論の間のギャップにある。それを自覚することだ。しかし、現実や事実は、常に真実とはいえない。それは、あくまでも、お前たちの目が観察したものだ。お前たちの頭が認識したものだ。それを自問するのだ。見ないものを考えるのが人間の思考なのだ。お前たちは、自分の姿が見えなくても、自分の存在を知っている。それが人間の能力ではないか」”p.85




恋をしている。そんなふうに彼女が思い込んでいることは、たぶん事実だし、彼にもよくわかっていた。思い込みというのは、無限の存在を、無限という数、唯一の数だと考えることに似ている。今の彼女は、遮眼帯をつけた馬のように、目の前の狭い角度の視野しか持っていない。自分の周囲の三百六十度を、彼女はまだ見ていないのだ。いや、三百六十度にも、さらにまだ二軸の自由度がある。”p.128




“「(…)人間の最も弱い部分とは、他人の干渉を受けたいと言う感情だ自己以外に自己の存在を求めることが、人間の本能としての幻想だ。この起源は、おそらく、単細胞の生物に遡るものだろう」
(…)
「弱い、それは克服せねばならぬ要因だ。誰しも、強くありたいと本能的に望んでいる。それが安全だからだ」
(…)
好かれたかった。それが、私の最も弱い意志だった。人に好かれたいと思う感情が、通常、その人間の内部の思考領域を限定する。その感情こそが自由を奪うのだ。私が望む意志は、もっと強く自由なもの。それは、自分自身の中の無限。思考の無限だ。(…)この地下室の私の八つの部屋が、今は私の内部であり、私以外の人間は、外側に閉じ込められている。私だけが自由だ
」“p.218


“「私の世界に他人は存在しない。人を殺すという概念はない」”p.219



複雑な問題を簡単に扱うために数学が生まれたんですけどね、人間はそれだけでは満足しなかったんです。実際の問題よりはるかに複雑なものまで、考えたくなった”p.364




「鏡に映った像は、左右が反対になりますね。どうして、上下や前後は逆にならないで、左右だけ入れ替わるのか、刑事さん、答えられますか?」(…)
「定義の問題です。左右だけが、定義が絶対的でないからです。上下の定義は空と地面、あるいは、人間なら頭と足で定義されます。前後も、顔と背中で定義できます。では、左右はどうでしょう?左右の定義は、上下と前後が定まったときに初めて決まるのです。人間の体型が左右対称ですし、歩いたりするときも横には動きません。上下と前後の定義が独立していて、絶対的なものであるのに対して、左と右の定義は相対的です。この定義のために、鏡で左と右が入れ替わるんですよ」
「待って下さい(…)鏡の映像に……、そんな、人間の考えた定義が関係するのですか?あれは物理現象であって、人間の言葉には関係がないと思いますが……」

いいえ、我々は、ものを定義して、それを基準に観察するんですよ
(…)僕たちに、顔がなかったとしましょう。そのかわりに、片手だけが大きくて、バルタン星人のようにハサミがついているとします……。この場合……、ハサミのある大きな手が、右と定義される。顔がないから、前後の定義が相対的なものになります。つまり、上下と左右が定まって、初めて前後が決まることになります。この顔なしバルタン星人が、鏡を見たら、前後が逆になりますよ。良いですか?ハサミの方の片手を挙げて、鏡を見てみましょう。鏡の中の自分も、やっぱりハサミの手を挙げているでしょう?つまり、左右は入れ替わっていない」
(…)
「それでは……、こういう説明ではどうでしょう。右と前、左と後ろ、この言葉を入れ替えて使う国があったとしましょう。その国では、右という言葉は前のことです。左という言葉は後ろのことです。顔がある方が右、背中が左です。さて、この国では、鏡を見て、左右が入れ替わるでしょうか
?」“p.433‐435

“「面白い話をしているときには、いついかなるときでも、けっして時間を気にしてはいけませんよ。理解できないというのは、身を引いて、考えるのをやめてしまうからです。面白いことから逃げてはいけません。人間としての鉄則です」”p.435





“少女が呆れて見ていると、お爺さんは円の中心に、きをつけの姿勢で立った。
(…)
「円の中心から、円をまたがないで、外に出られるかな?」
(…)
「そんなことできない」(…)
「私はできる」(…)指を一本立てる。そして、大きな円の中に立ったままで、
「ここが外だ」と言った。
「そこは中よ。外じゃないもの」(…)「ねえ、そうして、あそこが外なの?」
(…)
「この円を、大きくするのだよ。どんどん、どんどん、大きくしてごらん。地球はまるい。円はどうなるね?」
 少女は想像した。(…)ついに地球の直径と同じ大きさになる。(…)地球の反対側に向かって、今度は円は小さくなる。
 あれ?
「そうか!中よりも……、外の方が、小さくなるんだ」少女はその発見に嬉しくなった。
「あっ!そうか……。それで、そこが外ってことに……?」(…)
「でも、そういうときは、小さい方が中になるんじゃないかしら?」
お爺さんは少女をじっと見て、にっこりと頷いた。

「ねえ、中と外はどうやって決めるの?」
(…)
「君が決めるんだ
」“
p.476‐479最終章の末尾部分

『面とペルソナ 』『能面の樣式 』和辻哲郎

✝宋耀如(Song Yaoru)・浙江財閥(客家系)・四大家族✝

2012-05-10
 宋耀如(客家。クリスチャン宣教師。浙江財閥の創始者)の三人娘

長女・靄齢…財閥の孔祥煕と結婚。
二女・慶齢…親子ほど年齢差がある革命家・孫文(クリスチャン。客家)と結婚。
三女・美齢…孫文の後継者となった蒋介石と結婚。


長男・宋子文(アメリカ留学。銀行員をしていたことがある)
二男・子良
三男・子安

→蒋介石・宋子文・孔祥熙・孫文は義兄弟
→四大家族(蒋宋孔陳)のうち蒋・宋・孔家は血縁関係がある。

※四大家族…中華民国期に政治・経済の実権を握った蒋介石・宋子文・孔祥熙・陳果夫(陳立夫)の一族。
陳家だけが直接の血縁が無いものの、蒋介石と陳其美は義兄弟の契りを交わしているので、四家全て相互に連携している。

浙江(せっこうしょう。北に江蘇省と上海市、西に安徽省と江西省、南に福建省と接する。東は東シナ海に面する。)地区にある
浙江財閥
…米国でクリスチャンになった客家にして宣教師の、宋耀如(チャーリー宋)が中国での聖書販売権を得たことで一大勢力になった。

浙江財閥
=キリスト教布教機関中国支部
ボスは
ユダ金融=銀行の支配者
=金の支配者=国際金融資本
 
中国の中央銀行システムは浙江財閥が1928年11月、中国に中央銀行設立。 



宋耀如(Song Yaoru)(嘉樹)は、1875年、11歳でアメリカに渡ります。1886年14年間の米国生活を終え、キリスト教伝道師として上海へやってきます。同じメソジスト派のクリスチャンで、明代の科学者・徐光啓の末裔である名門の倪桂珍と結婚します。上記の三男三女を設けます。
※徐光啓1562-1633は42歳でカトリックに入信し、多くの科学書の漢語訳を行ないました。

耀如は聖書の印刷・出版で成功し(ユダ金の全面支援があれば当然)浙江財閥を築きます。
彼らは、孫文(クリスチャン)の革命に関するパンフレットや宣伝物を印刷するなどして、一家ぐるみで孫文の革命運動のスポンサーの役割を果たします。
 
 ※孫文の幼少期のエピソードのひとつに姉の纏足について母親に激しく抗議(客家は纏足に反対)しています。この事件によって、太平天国の乱のとき洪秀全の軍に入って戦ったことのある老人に、「大きくなったら、第二の洪秀全となれ」と言われたらしいです。老人は洪秀全も孫文も客家だと知っていたのでしょう。孫文は12歳のときにハワイで財を成した兄の孫眉のもとに赴いて、キリスト教系の学校に入学しました。


 おまけ

朱子 朱子学  も客家
王陽明 陽明学 も客家

中国共産党は客家が作った

今の客家組織の大親分=リー・クアンユー(Lee Kuan Yew,李光耀、1923~)
(シンガポール初代首相、現上級(顧問)相。東南アジアの華僑の元締め。南洋客属総会、永世名誉顧問。共産党弾圧。C哀Aも手が出せないらしい。イギリス留学)。
 
 これからはアジアの時代。この人は凄いですが、更に力を増すでしょうね。

das Man(ハイデガー)

2012-05-09
人間は一人一人を見るとみんな利口で分別ありげだが、
集団をなせばたちまちバカが出てくる。

「詩」シラー
Friedrich von schiller(フレデリック・ヴァン・シラー)


狂気は個人にあっては稀なことである。しかし集団・民族・時代にあっては通例である。
「善悪の彼岸」ニーチェ
(Friedrich Wilhelm Nietzsche フリードリヒ=ウィルヘルム―)

自分以外が格別突出するを許さず
自分自身が格別突出するを願い
自分自身が格別突出しないように振舞う

特別でありたいと特別でない思いを抱き
みんなと同じは嫌だとみんなと同じ思いを抱く

獅子身蟲の蟲のいい
ひとが蟲喰う世の中です



世人das Man(「ひと」)(「ただのひと」←子子子子子訳) 三人称不定代名詞manを大文字化し中性の定冠詞das=世の中の人。世間(という存在自体曖昧不明な)(の)人。不特定の大多数者。大衆。群衆。誰でもない誰か(たち)。one of them。 who。畜群(ニーチェ)。

死について考えない人の日常では本来性から落ち込んだ状態=非本来性)、に頽落し、「ひと」(ダスマン、世人)に堕している。


世人の三つの契機(=構成要素)

1、懸隔性
 大抵の人はいつも他人と自分の区別を気にしている。遅れを取り戻そうとしたり、優位を保ちつつ他者を押さえつけたり……

2、平均性
 他人の善し悪しの価値観を無自覚に受け入れ、その一般的な世間、幻想の平均とやらに自信を委ね、アイデンティティを保とうとする。

3、均等化
 でしゃばってくる(と勝手気ままにきめつけて)あらゆる例外を排除する。
 
世人の存在性格
=均等化+平均性+懸隔性=公共性

公共性=みんなと同じことをし、平均に近づこうとし、周りにも強制することで、
責任を免除する。
 ↑どんな残虐なこともできる。例えば、×宗教 ○衆狂


頽落の三指標(世人の生活) 自分を見失う


1、「空談」
=内容のない薄っぺらな話。下らぬ話。四方山話。与太話。井戸端会議。大抵の会議は無意味な懐疑。


2、「好奇心」
=「何となく面白いもの」に関心を寄せているだけ。次に「新しい」(という理由だけで)話題に注目し、どんどん忘れ去っていくこと。

3、「曖昧性」
=社会問題など、一見大事なことを了解しあって考えて意見しているようでいて、実は他人事程度にしか感じていない。ただ人々が問題にしているという理由で、そのことを一緒になって考え(るふりをす)る。危機感がない。曖昧有耶無耶にしてきちんと考えない。


現存在=(現に存在している)人間。(現=今、ここにいる)
存在者=存在する事物。ものごと。
共存在=他者と共にある存在。孤立した主観や意識ではないのが人間。

実存=人間の存在の仕方。自分自身の存在のありかたを問題にできるような仕方で存在しているような存在者の存在。

世界=○個々の人間によって具体的に生きられている世界。環境世界=身の回りの諸事物の世界。一人いればそこに一つの世界が生きられている。
 ×客観的な世界 ×自然世界

世界内存在
=○人間が生きている限り、一つの“生の世界”が存在する。現に生きられているその世界。実存論的観点。
→自分固有の生の“世界の内”を生きている、“実存としての人間”=世界内存在としての人間。      
(×世界の“内”に客観的に事物と共に人間が存在する)

共現存在=他者。互いに実存論的な視線を投げかけ合い、そのことで私と存在を規定しあっている存在

相互共存在=社会(社会性、共同性)。互いに存在了解を規定し合っている社会的存在)

共存在=共同体の中での存在。現存在は何よりもまず実存として存在する(内存在する)が、それ自身他から隔離された孤立した実存なのではなく、社会的なものであり、共にある現存在である

存在的=(存在者の「何であるか」を事実関係として問題にする)事実関係を問う。
存在論的=(そもそも「存在」「ある」とはどういうことか)意味本質を問う。

 

(前略)ひとが、他者たちとともに、他者たちのために、また他者たちに逆らってつかみとったものを配慮的に気遣うことのうちに、他者たちとの区別を均すためだけでもあれば、おのれに固有な現存在が――他者たちにくらべて立ちおくれているので――他者たちへと態度をとる関係のうちでその遅れを取りもどそうとすることでもあれば、現存在が、他者たちに対して優位を保ちながら、他者たちを押さえつけることをねらうことでもある。相互共存在は――それ自身には秘匿されてはいるものの――こうした懸隔を気遣うことによって安らぎをえられなくさせられている。実存論的に言いあらわせば、相互共存在は懸隔性[三文字傍点]という性格をもっているのである。こうした存在様式が日常的現存在自身に目立たなければ目立たないほど、ますます執拗に、またますます根源的に、この存在様式はその影響をあらわす。
 だが、共存在に属しているこうした懸隔性のうちには、現存在が、日常的な相互共存在としては、他者たちに隷属している[六文字傍点]ということが、ひそんでいる。現存在自身が存在している[六文字傍点]のではなく、他者たちが現存在から存在を奪取してしまっているのである他者たちの意向が現存在の日常的な諸存在可能性を意のままにしているのであるそうした他者たちは、そのさい、特定の[三文字傍点]他者たちなのではない。その反対に、あらゆる他者がそうした他者たちを代表しうるのである。決定的なのは、他者たちの支配が、目立ってはおらず、共存在としての現存在によって思いがけなくすでに引き受けられているということだけである。ひと自身が、他者たちに属して、他者たちの威力を強化している。「他者たち」とひとが名づけるのは、おのれ自身が本質上その他者たちに帰属していることを、隠蔽するためであるのだが、そうした他者たちこそ、日常的な相互共存在においては、差しあたってたいてい「現にそこに存在している」[鍵括弧内傍点]当のものなのである。誰かであるのは、このひとでもなければ、あのひとでもなく、そのひと自身でもなく、幾人かのひとでもなければ、また、すべての人々の総計でもない。「誰か」は、中性的なものであり、つまりは世人[二文字傍点]なのである。
 さきに示されたことなのだが、最も身近な環境世界のうちでは、公共的な「環境世界」がそのつどすでに道具的に存在しており、共に配慮的に気遣われている。公共的な交通機関を使用するときや、報道機関(新聞)を利用するときは、あらゆる他者が他者そのものと同然なのである。このような相互共存在は、おのれに固有な現存在を、「他者たち」という存在様式のうちへと完全に分解してしまうのだが、しかもそれは、他者たちがたがいの異なりや際立ちという点でさらにいっそう消えうせてしまうほどである。このように目立たず確認しがたいことのうちで、世人はおのれの本来的な独裁権をふるう。われわれは、ひと[二文字傍点]が楽しむとおりに楽しみ興ずる。われわれが文学や芸術を読んだり見たり判断したりするのも、ひと[二文字傍点]が見たり判断したりするとおりにする。だが、われわれが「群衆」から身を退くのも、ひと[二文字傍点]が身を退くとおりにするのであり、われわれは、ひと[二文字傍点]が憤激するものに「憤激する」のである。世人は、いかなる特定のひとでもなく、たとえ総計としてではないにせよ、すべての人々であるのだが、そうした世人が、日常性の存在様式を規定するのである。
 世人は、それ自身、おのれに固有な存在する仕方をもっている。われわれが懸隔性と名づけた共存在の前述の傾向の根拠は、相互共存在そのものが平均性[三文字傍点]を配慮的に気遣っていることの内にあるのである。この平均性は世人の一つの実存論的性格なのである。世人にはおのれの存在においてこの平均性へと本質的にかかわりゆくことが問題なのである。このゆえに世人は、現事実的には、当然とされているもの、ひとが通用させたりさせなかったりするもの、ひとが成果を是認したり否認したりするもの、そうしたものの平均性のうちにおのれを保持している。あえてなされうるし、またなされてよいことが、その下図をそこに描かれているこうした平均性は、でしゃばってくるあらゆる例外を監視する。あらゆる優位は音もたてずに押えつけられる。すべての根源的なものは、一夜のうちに平滑にされて、とっくに熟知のものになってしまっている。すべての戦いとられたものは手ごろなものになる。あらゆる秘密はその力を失う。平均性のこうした気遣いは、これまた、現存在の一つの本質上の傾向を露呈するのだが、われわれはそうした傾向をすべての存在可能性の均等化[三文字傍点]と名づける。
 懸隔性、平均性、均等化は、世人の存在の仕方として、われわれが「公共性」として識別しているものを構成している。この公共性は、すべての世界解釈と現存在解釈とを差しあたって規整しており、すべてのことにおいておのれの主張が正しいと押しとおす。しかもこのことは、「諸事物」へと態度をとる際立った第一次的な或る存在関係を根拠としているわけではない、つまり、現存在が表立って我がものとした見通しを公共性が意のままにしているからではない。そうではなくて、それは、「諸事象へ」と立ち入らないことを根拠としているのである、つまり公共性が、水準的なものと真正なものとのすべての区別に対して無感覚であるからなのである。公共性は、すべてのものを不明確にしてしまい、こうして隠蔽されたものを、熟知のものであり、誰にでも近づきうるものであると、言いふらす。
 世人はいたるところに居合わせてはいるのだが、しかしそれは、現存在が決断を迫るときには、いちはやくつねにこっそりと逃げ出してしまっているというふうに、居合わせているのである。けれども世人は、すべての判断や決断を前渡ししておくゆえ、そのときどきの現存在から責任を取り除いてやる。世人は、「ひと」が不断に世人を引合いに出すということを、いわば苦もなくやってのけうるのである。世人はいとも容易にすべてのことの責任を負いうるのだが、それは、誰ひとりとして或ることのために責任をもつ必要のある者ではないからなのである。世人は責任をもつ必要のある者でつねに「あった」のだが、それにもかかわらず、もはや「誰ひとりとして」責任をもつ必要のある者では「ない」と、言われうるのである。現存在の日常性においては、たいていのことは、われわれがそれについて、誰ひとりとして責任をもつ必要のある者ではなかったと言わざるをえないようなことによって、ひきおこされてゆくのである。
 このように世人は、その日常性におけるそのときどきの現存在の責任を免除する
[七文字傍点]。それだけではない。こうした存在免責でもって世人は、現存在に迎合する。というのも、現存在のうちには安請けあいや軽率な振るまいへの傾向がひそんでいるからである。また、世人は存在免責でもってそのときどきの現存在に不断に迎合するゆえ、世人はおのれの執拗な支配を保ちつづけ強化するのである。
 誰もが他者であり、誰ひとりとしておのれ自身ではない。世人でもって日常的な現存在は誰[一文字傍点]であるのかという問いが解答されたのだが、そうした世人[二文字傍点]は、誰でもない者[六文字傍点]であり、この誰でもない者にすべての現存在は、たがいに混入しあって存在しているときには、そのつどすでにおのれを引き渡してしまっているのである。


(中略)前述した諸様態をとって存在するとき、おのれに固有な現存在の自己も、他者の自己も、まだおのれを見いだしてはおらず、もしくはおのれを喪失してしまっているのである。ひとは、不断の非自立性や非本来性という仕方において存在しているのである。こうした存在する仕方は現存在の現事実性の低減を意味しはしないが、それは、誰でもない者としての世人が一つの無ではないのと同様なのである。その反対に、こうした存在様式においては現存在は、「実在性」が現存在とされるにふさわしい存在だと解される場合には、一つの最モ実在的ナ存在者なのである。
 そうはいっても、世人は、現存在一般と同じく、事物的に存在しているのではない。公然と世人が振るまえば振まうほど、ますます世人は、捕捉されない隠密のものになるが、しかし、ますます何ものでもないものにはならない。先入見なしで存在的・存在論的に「見てとる」なら、世人は、日常性の「最も実在的な主体」として露呈する。また、世人が事物的に存在している石のようには近づきえないものであっても、このことは、世人の存在様式をいささかも左右しはしない。ひとは、こうした世人が、「本来的」に何ものでもないものである、と性急に判決してもならないし、また次のような見解を抱いてもならない、すなわちそれは、ひとが世人というこの現象を「説明」して、たとえば、若干の諸主体がいっしょに事物的に存在していることを後ろからつなぎ合わせた結果にほかならないと見なせば、この現象は存在論的に学的に解釈されている、とする見解である。むしろ逆なのであって、諸存在概念の仕上げはこれらの却下されえない諸現象に準拠しなければならいのである。
 世人は、若干の諸主体のうえに浮かびただよっている「普遍的主体」といったようなものでもない。(中略)世人はそのときどきの現存在の類ではなく、また、この存在者がもっている不変の性質としても眼前に見いだされはしない。(中略)
 世人は一つの実存範疇であり、根源的現象として現存在の積極的な機構に属している[全文傍点]。世人は、それ自身これまた、おのれを現存在に適合して具体化するさまざまの可能性をもっている。世人の支配が徹底的に表立っていることは、歴史的に変化しうるのである・
 日常的存在の自己は世人自己[四文字傍点]なのであって、この世人自己をわれわれは、本来的自己[五文字傍点]から、言いかえれば、ことさらつかみとられた自己から区別する、世人自己としてはそのときどきの現存在は、世人のうちへと分散して気散じしており[十一文字傍点]、おのれをまず見いださなければならない。こうした気散じが性格づけているのは、最も身近に出会われる世界の内に配慮的に気遣いつつ没入することとしてわれわれが識別しているような、そうした存在様式の「主体」なのである。現存在が世人自己としておのれ自身にとって親しいものだとすれば、このことが同時に意味しているのは、世人が世界および世界内存在の最も身近な解釈の下図を描いているということ、このことにほかならない。世人自身は現存在が日常的に存在しているための目的である当のものであるのだが、そうした世人自身が有意義性の指示連関を分節するのである。現存在の世界は、世人にとって親しいものであるなんらかの適所全体性をめがけて、また、世人の平均性でもって固定されている限界のうちで、出会われる存在者を開放する。(中略)差しあたって現存在は世人であり、たいてい世人であるにとどまる。(後略)

マルティン・ハイデガー
『存在と時間Ⅰ』(Ⅰ・Ⅱ・Ⅲの全3冊)
2003 中央公論新社
Martin Heidegger : Sein Und Zeit 1927
原佑・渡邊二郎 訳
第二十七節 日常的な自己存在と世人
p.326-334




 日常性は、(中略)現存在が「何ということもなくどうやら無事にその日その日を生きている」仕方を指している。こうした仕方には、さらに、習慣にひたることの愉楽が属している。たとえ習慣は、煩わしく「厭わしい」ことを余儀なくさせることがあるとしてもである。日常的な配慮的気遣いは、明日のことをいつも予期しているが、そうした明日のことは、「永遠に昨日のこと」なのである。日常性の単調な一様性は、まさにその日その日がもたらすものを気分転換として受け取る。日常性は、現存在がおのれのために世人を「主人公」として選んでおかなかったときですら、現存在を規定しているのである。
同書物Ⅲ、p.161




現存在Daseinダーザイン=現実存在=人間(存在)
現Da=「そこ」場所+「現われている」開示≒開示の場(daは通常は場所の副詞「そこ」の意)
Dasein=現にそこに開示されている現存在
Da-sein=現にそこに開示されていること


気遣いSorgeゾルゲ=関心
配慮的=人間以外と、道具と
顧慮的=人間と

道具Zueg
道具的存在者Zuhandenes

道具的存在Zuhandensein(手元にある存在)

道具的存在性 Zuhandenheit
手Hand zu関わり合う →手の延長と解されている「道具」に関係。

事物的存在者 Vorhandenes
事物的存在Vorhandensein(手前にある客観存在)

事物的存在性 Vorhandenheit
Hand  vor前に在る→手から「離れて」人間との「関わり合いの向こう側」に存在する「事物」に関係。




Keine Sorge!「心配するな!」
Sorge「心配、懸念、不安」
Kein(e)は否定。

「気にするな」3格(人)+Sorgen+machen 。
Mach dir (darum) keine Sorgen.「(そのことは)心配しないで」
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